第7章 彼女は何か卑しい人なの?
二時間あまりかけて、南雲玲奈はようやく香澄と一緒に、小さな町ひとつを完成させた。
気づけばもう昼食の時間だ。香澄がお腹を空かせたら大変だと、玲奈は手をつないで階下へ降りようとする。
香澄はご機嫌で、玲奈の手を握ったまま、ぶんぶんと小さく振ってみせた。
その仕草がたまらなく愛おしくて、玲奈の目尻がふっと緩む。
「香澄ちゃん、えらいね。こんなに早くお城まで作れちゃった。ママより上手」
褒められた香澄は小さな唇をきゅっと結んで笑い、瞳をきらきらさせた。
そのふわりと甘い笑顔に、玲奈の胸の痛みが少しだけ癒える。
娘は、難しいことをやり遂げたときや、好きなものに出会ったときだけ、こんなふうに感情がはっきり顔に出る。
――大きな進歩だ。
これからのケアも、きっとこの方向で伸ばせる。そう思えた瞬間だった。
玄関のほうで気配が変わった。
横尾孝人が帰ってきたのだ。
男は冷えた圧を纏ったまま使用人へ命じる。
「先に香澄を連れて下へ行け」
それから、淡い視線が玲奈へ落ちる。拒否を許さない声音。
「書斎へ来い」
南雲玲奈は一瞬だけ固まった。
……これは、叱責のために呼ばれている顔だ。
自分がまた何をしたというのか。思い当たらない。けれど反論しても無駄だと、もう知っている。
玲奈は香澄を使用人に預け、孝人の背を追った。
書斎へ入るなり、真っすぐ問う。
「私に何の用?」
香澄がいない。そうなると孝人は遠慮を捨てた。
「よく聞けるな。南雲玲奈、おまえは何がしたい? 美奈に嫌がらせして、引き継ぎをまともにしなかっただろう。両社の協力関係を壊すつもりか。あの案件が、どれだけ重要か分かってるのか」
意味が分からなかった。
中島美奈に嫌がらせ? 引き継ぎをしなかった?
玲奈は冷たく返す。
「私は規定通りに引き継ぎました。中島美奈が『もう分かった』って言って、私を帰したんです」
「もういい!」
孝人が低く怒鳴る。
「この状況でまだ美奈を貶めるのか。あいつはそんなに分別のない人間じゃない」
その目には、玲奈への不信しかない。
最初から、悪者は自分だと決めている目だ。
身体の芯が冷えていく。頬から血の気が引いた。
中島美奈は分別がある。
なら、自分は分別がないと言いたいのか。
何年も寝る間を削って、プロジェクトに命を注いできた。ふざけたことなど一度もない。
それでも孝人は、事情も聞かずに断罪する。
四年の結婚が、他人のひと言で揺らぐ。
――自分は、どれだけ惨めなんだろう。
弁解する気力はもう残っていなかった。言っても信じないのだから。
離婚届――あの協議書は、まだ見ていないのだろうか。
早く終わらせてしまえば、こんな濡れ衣も関係なくなるのに。
玲奈が黙ったのを、孝人は「後ろめたいからだ」とでも受け取ったのか、顔つきはいっそう冷たくなる。
「横尾グループと中島グループの協力は、双方が重視している。これ以上美奈にちょっかいを出すな。大人しく席を譲れ」
そして、決定事項のように言い渡す。
「今から会社へ来て、引き継ぎをやり直せ。終わったら家で香澄を見ろ。仕事には一切関わるな」
玲奈は行きたくなかった。
あの女の、見下した笑い方が頭に浮かぶ。表では上品ぶって、裏では平気で話をねじ曲げる。
自分がどれほど安い存在だと思っているのか。今さら頭を下げて戻れと?
玲奈は拒むように言い切った。
「引き継ぎは終わってます。問題があるなら中島美奈のせいです。私とは無関係」
そう言って踵を返し、香澄と昼食を取るため階下へ向かおうとした。
だが孝人は数歩で追いつき、玲奈の手首を強く掴んだ。
「南雲玲奈、拒否は許さない」
力任せに引っ張り、家の外へ連れ出そうとする。
「放して……何考えてるの。頭おかしいんじゃないの?」
玲奈は顔を険しく沈め、必死に腕を引き戻す。
あの女のために、暴力まで使うなんて。
――あの人前の穏やかさも、品の良さも、どこへ消えたの?
物音に気づいた香澄が、こわごわ近づいてきた。きっと、ママと一緒にご飯を待っている。
玲奈は身をずらして腕を隠し、できるだけ明るく言った。
「香澄、いい子。ママ、ちょっとだけ。先にリビングで待ってて」
香澄はぱちぱち瞬きし、分かったようにこくんと頷いて離れていく。
玲奈は怒りを噛み殺しながら、孝人を睨んだ。
「放して。香澄とご飯を食べたら行きます。こんな乱暴、必要ないでしょう」
孝人はしばらく迷うように目を伏せ――やがて、ゆっくり手を離した。
それでも声は氷みたいに冷たい。
「二十分だけだ」
玲奈はそれ以上、何も言わない。
そのまま早足で階下へ向かい、香澄のもとへ急いだ。
